八木節のおおもと

 八木節のおおもとは、例幣使街道にあった宿場に越後方面から売られて来た哀れな遊女や飯盛り女達が故郷恋しと唄った越後の唄だといわれている。これらの唄は瞽女唄だったり、神保広大寺くずしだったりしたようだ。

 日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)とは、徳川家康の没後、東照宮幣帛を奉献するための勅使日光例幣使)が通った道である。中山道倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る。

なお、楡木より今市(栃木県日光市)までは壬生通り(日光西街道)と共通である。地元(栃木県鹿沼市~日光市)では現在もこの区間(国道293号国道121号)を「例幣使街道」と呼んでいる。この区間にも日光杉並木が現存する。(Wikipediaより引用)

 群馬と栃木(旧上野と下野)の県境から西(群馬側)へ1つ目の宿が太田宿で、その東側は栃木の八木宿、太田の1つ西側が木崎宿となる。これらの宿場女が故郷恋しと唄った越後唄が客などに歌い継がれ、地元の唄として残った。西から、玉村宿(現群馬県佐波郡玉村町)の横樽音頭、境宿の赤椀節、木崎宿(現太田市)の木崎音頭(別ページ試聴可)、更には八木節として現在も続いている。

 さて、栃木県足利郡山辺村堀込生まれの渡邉源太郎(1782-1943)という馬方がいた。この人は生来の美声でしかもなかなかの男前だったようだ。若くして近所の馬子唄師匠の弟子となり、道中馬子唄を歌っていたという。源太郎は、また瞽女唄や宿場女の歌も大変愛し、すぐにそらんじて道々唄っていた。唄を唄うのに、飼葉桶をたたいて唄ったのが、後に樽になったのだという。道中の主な部分はやはり栃木、群馬にまたがる地帯、今で言えば、佐野、足利、桐生、太田辺であったらしい。美声である上美男であったため(ホームページの文献紹介写真でも男前がわかる)、道中近辺の機織女や宿場女の人気は大変なものだったという。

 こうして源太郎が唄った唄は、だんだん人気を博し、土地で開かれた今でいうコンクールにも出場、優勝したりして、八木節は出来上がってゆく。人気が出たので源太郎は源太節という名称にしたかったらしいが、大会が開かれた八木宿(栃木県)の顔役から八木節にして欲しいとの要望を受け、八木節としたとのことである。また芸名は生地の堀込(これも栃木県)を取り、堀込源太としたとのことである。

 つまり、八木節は、

・創作者は堀込源太

・発祥地は栃木県足利市

ということになる。

また、別ページの八木節由来の歌詞も参照されたい。

更に別ページには木崎音頭、横樽音頭のユーチューブもアップした。

 

 

アーアーアー 八木節ルーツは祖父

<陽気な祖父初代・堀込源太郎、平和主義者の一面も>

                     友常 太響 (平成18年8月3日付け日経新聞「文化欄」から転載)

 

 「国は上州佐波郡にて/音に聞こえし国定村の/博徒忠治の生い立ちこそは・・・」

 酒樽や鼓・鉦・笛などで、チャカポコ、チャカポコと叩く軽快なリズム。栃木県と群馬県にまたがる両毛地方に伝わる「八木節」をご存知だろうか。大正時代に全国的なブームが起こり、現在でも盆踊りなど各地の祭りでよく耳にする民謡だ。

 栃木県足利市に生まれ育った私は、八木節の「アーアーアー」と天に抜けるような歌い出しを聞くと、無性に血が騒ぎ出す。自分の根源を揺さぶられるような感じ。それもそのはず、八木節の創始者として知られる「初代・堀込源太」は私の実の祖父なのだ。

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 馬方しながら美声披露

 本名は渡部源太郎、明治五年(1872年)足利に生まれ、馬方をしながら方々で持ち前の美声を披露していた。地元の馬子唄や越後の瞽女唄をアレンジした祖父の歌いぶりは 評判になり、大正三年(1914年)に日本蓄音器商会(現在のコロムビアミュージックエンターテインメント)でレコード録音を実施。地元の宿場町「八木宿」にちなんで「八木節」と命名し、次いで東京への興行進出を果たして全国展開のきっかけをつくった。

 祖父が亡くなったのはは太平洋戦争さなかの四三年。私はまだ十歳の子どもだった。その後は書家の道を歩み、八木節とは特に縁のない人生を送ってきたが、五年前に患った大病がきっかけで、彼の一生を自分なりに調べようと思い立った。

 四十度ぐらいの熱は三ヶ月続き、生死のはざまをさまよった。そんなとき不思議と祖父のことを思い出す。

 「おーい、寿太ボー」。遊びに来ると祖父は決まって私の名前(本名)を呼んだ。「これをくわなきゃいい声で歌えねえんだ」といいながら生のニンジンを三本まるかじりし、かん酒を飲むと「さあやるぞ」といって私に八木節の稽古をつける。「わたしゃ、堀込源太の孫で・・・」。子ども心にありがた迷惑な気持ちもあったけれど、陽気な祖父の姿は、今でも鮮明に覚えている。

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 めったに家に帰らず

 奇跡的に体調が回復しさっそく祖父のことを調べ始めた。八十、九十歳代のお年寄りがいる家を教えてもらい一人ずつ訪ねていった。

 何軒回ったろだろうか。雨の中を聞き取りにたずねると、おばあさんが一人出てきた。「堀込源太の孫なのですが」と伝えると、「えっ、あのアーアーアーと歌ってた源太さんの孫?さあさ上がって」と促された。

 八十八歳の女性が話してくれたのは、一九〇七年夏に開いた盆踊り大会の歌自慢で、祖父が優勝した出来事だった。彼女自身はまだ生まれていない時期だが、家族の人から当時の楽しい思い出を繰り返し聞いたのだろう。自分がその場にいたように懐かしく答えてくれる姿が、青春時代に戻ったかのようだった。「祖父の歌がこんなに人生を明るくする力を持っているなんて」。うれしさがこみ上げてきた。

 ただ祖父は自分の家族には相当な苦労をかけていたようだ。巡業に忙しく、めったに家には帰らない。孫が言うのも何だが、美声で美男子、女性にはよくもてたらしい。子どもたち、そして何より私の祖母の苦労は並大抵ではなかったと思う。

 もっとも、本人もよく自覚していたらしい。祖父の十八番に「継子三次」という歌がある。継母にいじめ抜かれた子どものことを歌ったもので、よく祖父が涙を流しながら演じたという話を聞いた。わが事を思い起こし、身につまされる思いだったのだろう。

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 時代時代の思い継承

 一方徹底した平和主義者という面もあった。太平洋戦争開戦の報を聞くや「戦争はやめろ、大切な青年が殺されてしまう」と大声で怒鳴り、官憲の監視がつくほどだったという。若いころ、馬子唄を歌って馬を引く道すがら、日清・日露戦争で息子を失った人々の話を聞いた経験が原点にあったようだ。八木節にも「乃木将軍と辻占売り」という戦没者家族の困窮を題材にした歌がある。

 四二年の引退の公演の直前、私が祖父にかけられた最後の言葉も「戦争なんか行くんじゃねえぞ。大切なのは平和だぞ」。庶民の思いを吸い上げた八木節のこころを象徴するような言葉だった。

 こうしたエピソードは、著書「わが回想の堀込源太」にまとめた。祖父の時代、八木節には最新の世相や庶民の思いが反映されていた。八木節は単に保存し継承する伝統芸なのではなく、時代時代の人々の思いを取り入れていく芸能なのだ、ということを伝えられればうれしい。(ともつね・たいきょう=書家) 

 

八木節由来

以下は友常先生の著書より引用したものです。作者不明とのことですが、八木節の歴史を語る歌詞になっています。

1.八木節由来の其の物語り            

  作り出したる人々なぞを

  さあさ皆さんご存じないか

  さらばこれから読み上げまする

  頃は幕末日本の夜明け

  昔栄えた例幣使街道

  通りすじなる渋垂(しぶたれ)村の

  

2.姓は石井で名は多三郎

  それに息子の芳平さんと

  隣り合わせの勘十郎さんよ

  木崎宿にて一人の女

  越後生まれでふるさとしのび

  故郷恋しと唄いし唄よ

  いつか流れる八木宿郭

 

3.隣村からそのまたとなり

  我もわれもと教へを願い

  父のなきあと芳平師匠

  隣り合わせの勘十郎さんと

  更に菅笠日傘に扇

  出来た出来たよ苦心の末に

  今の八木節みなもと出来た

 

4.ついに明治も末期となりて

  堀込生まれの源太郎さんは

  師匠芳平に弟子入り致し

  あまた弟子達あるその中で

  生まれついての美声をもって

  あちらこちらで唄いしうちに

  あれは馬方源太郎節か

 

5.源太その唄わしゃ聞きほれた

  何処に行ってももてはやされて

  時は大正三年なるが

  レコード吹き込みまた大人気

  ついにラジオの電波にのせて

  日本全国その名をあげる

  いつの間にやら弟子たち増える

 

6.八木節由来はまだまだあるが

  苦節十年そのかいあって

  今の世までもその名を残す

  八木節起こりしその物語り

  語りつくせば話は尽きぬ

  さって一座の皆さん方よ

  又の御えんでよ読み上げまするが

  オオイッサネエー

創作者 堀込源太の教え

 以下は、始祖堀込源太の八木節を唄うについての教訓である。

 

一、八木節歌いだしのアーは「嘻」の意で人間の喜怒哀楽を4段階にわけて表現する。

一、継子三次を唄い、心は五郎正宗に成らぬこと。忠治を唄い乃木にあらざること。八木節は一つなれ 

  ど技巧のみに依らず、唄のこころを唄うべし。これ演者の心得也。

一、踊りも、その心は音頭に従うべきの事。

一、樽、鼓等は雷を表し、最も馬の嫌う雷神を鎮めん為なり。

一、笛は風を表し、樽、鼓、笛に依りて風神、雷神を鎮めんとするものにして鉦は馬の鈴と共に神・礼 

  拝の際、紅白の紐に依りて、鉦を敲くと同じに成るべし。

以上八木節演者良く良く心得可きの事

 右・堀込源太こと渡邉源太郎の口伝也{渡邉}印

 右代筆・堀込種男

                       (参考文献 友常太響著「我が回想の堀込源太」)                  

What's New

*ホームページに友常先生の著書を紹介しました。 

*「八木節を聴いてみる」のページに二代目堀込源太の唄をアップロードしました。

*「八木節を聴いてみる」のページに桐生市ホームページの正調八木節、長講2番のリンクを追加しました。

 

*「八木節の発祥」のページに友常先生の新聞記事抜粋を掲載しました。(23.4.14)

 

*「八木節を聞いてみよう」のページに詩吟の漢詩、MIDI音、PDF楽譜を追加しました。(23.4.13)

 

 

*一言つぶやきました。(23.4.27)

 

*八木節を聞いてみようのページに3代目堀込源太の唄を追加しました。(23.5.4)

 

*堀米左源太大師匠にお目にかかりました。掲示板をご覧ください。(23・7・27)

 

*つぶやきのページに新潟市、下駄総踊りの記事を追加しました。(23・9・17)

 

*太田八木節保存会のページを新設(23・10・21)

 

*地域自治会や、区の老人クラブ連合会などを次々命ぜられ、このホームページを全く触る時間がありませんでした。やっといくらか時間がとれましたので、長年の懸案だった、太田八木節保存会新年会で、名人マッチャンの笛長講を五線譜化してみました。

笛のメロディーのページにアップロードしました。(H27・1・

21)


*木崎音頭のきれいな動画をみつけましたので、「八木節を聞いてみる」のページの木崎音頭を更新し、urlをアップロードしました。

また、大変珍しい「横樽音頭」もありましたので、同じページに乗せました。(H27・1・30)


*桐生市ホームページにリンクを張っていた3つの素晴らしい八木節は、桐生市により削除されてしまい、聴くことができません。そのためリンクを削除いたしました。

CDが出ているので買ってほしいとのことです。(H27/2/14)